白居易「燕子楼三首」の解釈をめぐって
下定雅弘
はじめに
小稿を草する理由と目的について述べる。それには、「燕子楼三首」についての資料と、これをめぐる議論の概況をまず述べておく必要がある。
「燕子楼三首并序」0859～0862は、元和十年(八一五)、白居易が下邽での服喪を終えて、太子左賛善大夫として長安に在る時の作である。(1) その「序」によれば、かつて白居易が校書郎だったときに、徐泗即ち徐州に遊んだことがあるが、そのおり、張尚書が宴会を開き、妓女の眄眄(べんべん)が興を盛り上げてくれて、楽しいひとときを過ごした。それから十二年近くたって、司勲員外郎の張仲素君が私を訪ねてきて、「燕子楼三首」を吟じてくれた。それは張仲素が眄眄のために作ったのだという。そして眄眄の消息について彼がいうのには、張尚書は没して洛陽に葬られており、彭城即ち徐州に張氏の旧邸があるのだが、その邸宅に燕子楼という楼があり、眄眄は主人の旧愛を忘れることができずに、この楼に十年余り暮らしているのだと。これを聞いて、張仲素が眄眄に代わって作った「燕子楼三首」に次韻して作ったのが、白居易の「燕子楼三首」である。「序」を挙げておく。(2)
徐州の故張尚書に愛妓有り、眄眄(汪立銘『白香山集』は「盼盼(はんはん)」とする。『唐詩紀事』も「盼盼」とする。以下、テキストもしくは論者各々が使用する語に従う)と曰う。歌舞を善くし、雅に風態多し。予校書郎為(た)りし時、徐泗の間に遊ぶ。張尚書予を宴し、酒酣(たけなわ)なるとき、盼盼を出だして以て歓びを佐(たす)けしむ。歓ぶこと甚し、予因りて詩を贈りて云う、「酔いし嬌(なまめ)かしさに勝(た)え得ず、風は嫋(ゆらが)す牡丹の花」と。一たび歓びのときは去りぬれば、爾後絶えて相い聞かざること、茲こに迨(およ)びて一紀に僅(ちか)し。昨日、司勳員外郎張仲素繢之(かいし)予を訪い、因りて新詩を吟ず、燕子楼三首有り。詞甚だ婉麗、其の由しを詰(せ)むるに、盼盼の為に作りしなり。繢之は武寧軍に従事すること累年、頗る眄眄の始末を知る。云わく、尚書既に歿して、東洛に帰葬す。而して彭城に張氏が旧第有り、第中に小楼有りて燕子と名づく。眄眄旧愛を念いて嫁(とつ)がず、是の楼に居ること十余年なり。幽独塊然、今に尚お在りと。予繢之(かいし)が新詠を愛し、彭城の旧遊に感ず。因りて其の題に同じて、三絶句を作る。
ところで、南宋計有功撰『唐詩紀事』巻七十八には、「張建封妓」という項目があり、ここに白居易の「燕子楼三首」および、さらに『白氏文集』では「故の張僕射の諸妓に感ず」0662と題される絶句一首を引いて、盼盼が白居易の詩を読んで、主人が亡くなったのにどうして生きているのかと詰られたと思い、絶食して死んだという話が記載されている。要するに白居易が、妓女盼盼に対して、主人が亡くなったのに、その後もなぜ生きているのかと詰(なじ)ったために、妓女が自殺したという話になっている。
これについて、戦前では、簡野道明『白詩新釈』は、(3) 『唐詩紀事』の記述をそのまま認めて、「盼盼が楽天の詩を見て深く感激し、やがて縊死するに(『唐詩紀事』の記述は「縊死」ではなく「不食而卒」である……下定)臨み、「妾ハ死スル能ハザルニアラズ、我ガ公、死二殉フノ妾アリテ清範ノ玷サンコトヲ恐レシノミ」と曰つたといふ、余程心の「シッカリ」した女であつたらふ、已に此貞節と文才とあり、鬚眉男子も愧死すべきだ」といっている。
また小杉放庵『唐詩及唐詩人』は、(4) 盼盼が悲しみ憤慨した絶句(後掲)を示した上で「……楽天軽率の一句貞烈の人を殺したわけ、大抵家妓は主人没するか、家道振るわずなれば去ってまた別の計に就く、女奴の一種だから婦徳を期待すべき筋ではない、だから、楽天、中気となって自身の愛妓を手離した、好い見切り時であったろうが、苦労人の楽天、普通人の見切りに賢く、桁外れの女の心底を見損じて、大きに失敗した」といって、白居易を責めている。戦前のこの二人の見方は、一般の理解にも大きな影響を及ぼしたろう。そして、この見方は戦後も無くなったわけではない。
入谷仙介「白居易と女性」は、(5) これについて「「諸妓に感ず」と「燕子楼」とは、明らかに別々の機会に、別々のテーマで書かれている。……「燕子楼」の詩の中には、彼女に対する批判は少しもない。売物買物で、主人に操を立てる義理など少しもない妓女が、主人に対する愛情からひとり主家にとどまった行為の中に、人間として生きようとする主体性を感じとり、しかもその主体性が孤独に耐えてひとり住むという形でしかありえないことに対する深い同情がある。私は伝説は伝説にすぎないと思う」と、『唐詩紀事』の記述を作り話だとし、小杉放庵の見方を批判している。
西村富美子「「燕子楼詩」をめぐってー妓女詩人詩人関盼盼に関する『唐詩紀事』の虚構性を問うー」は、(6) 表題作を例に挙げて、中唐期の女性文学を評価する場合の観点の問題として『唐詩紀事』の記述を論じ、張尚書は誰なのか、盼盼は誰の妓女だったのかなど、主として事実関係について論じ、『唐詩紀事』の記述は虚構だが一部に事実をも含む、全面否定するのではなく虚構を交えた伝記の一つと見ることで、女性詩人盼盼の評価を正確に行う道が開けると主張している。
ところが、最近、『唐詩紀事』が白居易の詩に付与している意味をほとんどそのまま受け入れている論考が現れた。福本雅一「燕子楼と張尚書」がそれである。(7) この論考は、①白居易の「燕子楼序」にいう「張尚書」は張建封であって張愔ではない、②名を明確にせず、「尚書」とし、かつ「校書郎為りし時」と、白居易がすでに科挙に合格した後の時期に設定するのは、自身が張建封の権勢に頼って求官運動を展開したことを隠すための偽証だと断ずるものである。
論の詳細は本文によられたい。ここには、小稿を草する理由に関係が深い部分を引用しておく。
「彼はそれ以後生涯、寒門出身でありながら、自らの努力と才覚で官途に就いた、と言い続けた。……武寧節度使の属官として徐州にいた張仲素の口から、燕子楼のことを聞いた居易は、愕然としたに違いない。宴席に侍り、彼を歓待した証人がまだ生きていたのである。建封も彼女にだけは、居易の来訪の目的を話したかも知れない。この秘密(張建封に一臂の助力を求めたこと……下定)が暴かれてしまえば、居易の声価は急落するであろう。……こうして居易は張建封の名を濁して、ただ張尚書と記し、さらに彼に会ったのは校書郎の時であったと、科挙とは関わりのない年代にずらせたのである。更に妄想と邪推を逞しくすれば、居易は盼盼に殉死を諷し、お前にも弱みがあるぞ、俺の過去を語るなと、彼女を脅かしたのかも知れない。「争教紅紅不成灰」という彼の句、「訝道泉台不去随」という彼女の句は、その証拠である。ーー決定的な確証はもとより存在しないが、このような状況を仮構してみると、万事がうまく説明できるのではないか」(64頁)。
「以上、私は、白居易が「校書郎為りし時」と偽証したことを明らかにし、また張愔が尚書として彼を歓待することは、殆ど不可能であると結論する。そして偽証という行為によって、従来の白居易像にも、若干の修正が必要であることを、附記しておこう」(71頁)。
以上が、おおざっぱだが、日本における、近時に重点を置いた、「燕子楼三首」についての議論の概況である。
このいずれの立場･見方が正しいかはひとまず置き、私は、このように揺れがあり、異なった論が登場してくるその大きな原因が、白居易の「燕子楼三首」および「感故張僕射諸妓」についての解釈がまともになされていないことにあると考える。西村論文も、事実関係の究明に力を注いでいて、白居易の作品そのものの内容には関心が向かっていない。
私は、福本論文を拝読することによって、日本における「燕子楼三首」をめぐる議論を再度ふりかえり、周辺資料をもいささか調べてみる機会を得た。この結果、『唐詩紀事』の記述が白居易の「燕子楼三首」の解釈に少なからぬ影響を及ぼしていることに改めて気づいた。そこで、小稿では、白居易研究が迷路に引きこまれることがないように、いらざる波動や揺り戻しが生ずることのないようにとの思いで、ごく基礎的な作業として、「燕子楼三首」および「感故張僕射諸妓」につき、先達の助けをもお借りして正確に解釈しておきたい。以上が小稿を草する理由と目的である。
一 「燕子楼三首」について
三首は、「序」によれば、眄眄に代わって張仲素が作った七絶三首に、白居易がやはり眄眄になりかわって主人没後の寡居を悲しむ次韻の作である。
其一0860は、秋の夜の独り寝のさびしさを詠う。
滿窗明月滿簾霜 窓に満ちる明月 簾(すだれ)に満ちる霜
被冷燈殘拂臥床 被(ふとん)は冷たく灯(ともしび)残して臥床を払う
燕子樓中霜月夜 燕子楼中 霜ふる月の夜
秋來只為一人長 秋来たりて只だ一人の為に長し
窓には明るい月の光がさしこみ簾には霜が満ちています、ふとんは冷たくともしびも消えかけ、私はベッドをはたいて起きあがります。燕子楼に霜の降る夜、秋がやってきたけれど、私一人だけに夜はこんなにも長いのです。
原唱を挙げておく(『唐詩紀事』に依る)。
樓上殘燈伴曉霜 楼上の残灯 暁霜を伴い
獨眠人起合歡床 独り眠る人は合歓の床より起く
相思一夜情多少 相い思いし一夜の情は多少ぞ
地角天涯不是長 地の角(すみ)天の涯も是れ長からず
原唱は、眠れぬままに主人と愛しあった夜を思い、地のすみ天のはてさえも遠いとはいえない綿々として尽きることない愛の深さを自ら嘆じている。
白詩は、明月のもと、悲しみが深まり、寝ることができずに起きあがり、まんじりともせずに長い夜を過ごす、古詩以来の、閨怨のモチーフを用いて盼盼の悲しみを表現している。「臥床を払う」について、張淑瓊主編『白居易』は、(8) 盼盼がかつては張愔のためにベッドの塵を払っていたものが、いまは自分一人のためにそれをすることになってしまった悲しさを表現しているという。
其二0861は、張尚書の前で「霓裳羽衣曲」を舞ったときに着た服が、箱の中に畳まれたままであるのを見つめている。
鈿暈羅衫色似煙 鈿(かんざし)は暈(くも)りて 羅(うすぎぬ)の衫(さん) 色は煙に似たり
幾回欲著即潸然 幾回か著けんと欲して即ち潸然(さんぜん)
自從不舞霓裳曲 霓裳の曲を舞わざりし自従(よ)り
疊在空箱十一年 畳みて空箱(くうそう)に在ること十一年
かんざしは日月のまわりのぼんやりとした輪のように輝きが失せ薄絹の上着もけぶるように色あせました、なんども着ようと思ったけれど涙がはらはらと流れてしまうのです。「霓裳羽衣」の曲を舞わなくなってから、畳んで空しく箱に入れたまま十一年がたってしまいました。
原唱はこうである。
北邙松柏鎖愁烟 北邙の松柏 愁烟を鎖(とざ)し
燕子樓中思悄然 燕子楼中 思い悄然(しょうぜん)
自埋劍履歌塵散 剣(けん)履(り)を埋めし自り歌は塵と散じ
紅袖香銷一十年 紅袖の香り銷(き)えて一十年
原唱の「剣履」は「剣履上殿」を縮めた語。張尚書を指す。「剣履上殿」は、皇帝が特に、重臣が剣を外さず靴を履いたままで、朝に上るのを許すこと。
白詩、「空箱」の「空」は、「空房」「空閨」などと同じく、精神的な空虚を意味する。結句「十一年」について、張淑瓊『白居易』は、張尚書は張愔だとする立場から、張愔が亡くなったのは元和元年であり、詩が作られたのは元和十年だから、「一十年」の誤倒のはずという。
其三0862は、尚書の墓に参った客が、尚書の墓の白楊樹が柱くらいの太さになっていると歳月の無情を告げたのに対する盼盼の思いである。この結句の解釈が問題である。
今春有客洛陽迴 今春 客有り洛陽より迴(かえ)る
曾到尚書墓上來 曾て尚書が墓上に到りて来たる
見說白楊堪作柱 見説(きくな)らく白楊 柱と作(な)すに堪えたり
爭教紅粉不成灰 争(いか)でか紅粉をして灰と成らしめざる
この春洛陽からもどって来られた方がいて、尚書の墓前におまいりをしたとおっしゃいます。聞けばお墓に植えてある白楊が大きくなって柱にできるくらいだとか、かつては念入りにお化粧をしていましたがいまとなってはどうして身も心も火が消えた灰となってしまわないことがございましょう。
原唱はこうである。
適看鴻雁岳陽迴 適(たま)たま看る 鴻雁の岳陽に迴るを
又睹玄禽逼社來 又(ま)た睹(み)る 玄禽の社に逼(せま)りて来るを
瑤瑟玉簫無意緒 瑤(たま)の瑟 玉の簫に 意(お)緒(もい)無く
任從蛛網任從灰 蛛網(くも)に任(ま)従(か)せ灰に任従す
原唱第一句、西村氏は「渡り鳥が南北に往来するのを眺めて年月が経っていくのに」と解する。「玄禽」は燕。「社」は、「社日」即ち立春後及び立秋後の第五の戊の日。ここは、立春後の社日であり、春の訪れとともに、燕がつがいで飛んできたことをいう。「灰」は塵。結句は、かつて主人のために弾いた楽器の「瑟」も「簫」も今は、蜘蛛が巣をはり、塵をかぶるままにほったらかしてあるの意。
白詩、結句の「紅粉」は、べにとおしろい。盼盼が化粧でつけているのだが、同時に盼盼自身を指している。この一句は、その「紅粉」がどうして灰にならないのか、とは、どうして私が死なないことがあろうか、の意なのではない。佐久節『白楽天全詩集』が、(9) 「なぜ吾は惜しからぬ命を長らえているのであろう」と訳すのはまちがいである。入谷が「紅粉は口べにとおしろい。眄眄が化粧に使っていたもの、長い間使わなかったから、灰になってしまったのである」という通りである。
しかし、それだけでは結句として弱い。情感のこもりかたが薄いし、其二の内容のくり返しになる。私は、これは、『荘子』斉物論篇に「南郭子綦は几(つくえ)に隠(もた)れて坐り、天を仰いで嘘(いき)つけり。嗒焉(とうえん)としてうつろなさまは、其の耦(つま)に喪(し)にわかれたるが似(ごと)し。顔成(がんせい)子游(しゆう)、立ちて前に侍りしが、とうて曰く、「何(いか)が居(め)されしか。形(からだ)は固(もと)より槁(か)れ木の如くならしむ可く、心は固より死(つめた)き灰の如くならしむ可きか。……」」(訓は、福永光司『荘子』に依る)とあるのに基づいていると思う。
すなわち、「死灰」は、愛する妻を失って、うつろな心に身も世も忘れた男のようである南郭子綦の姿を見て、弟子の顔成子游がその無表情･無感動なさまを形容して、姿は枯木のように突っ立ち、心は火の気の失せた灰のようだといっているのである。したがって、この結句は、尚書さまが亡くなられてもうこんなにも長い歳月が過ぎ去りました、ああ私の心は火の消えた灰のようにうつろで悲しいという意味である。白居易が、そのように眄眄の悲しみを推しはかっての一句であり、福本が、盼盼に「殉死を諷し」たものとするのは、全くの誤読である。
二 「感故張僕射諸妓」について
『白氏文集』では、上掲の「序」があり、この三首がある。それだけである。ところが『唐詩紀事』では、これに白居易がさらに絶句を送り、それを見た盼盼が悲しみ憤激して自殺したという記述が続く。
「訝(いぶか)しみて道(い)う泉台に去(ゆ)きて随わず」、私がなぜ尚書の後を追って死なないのかといぶかしく思っておられるという、盼盼作と伝えられる句は、白居易の「故の張僕射の諸妓に感ず」0662を承けて詠ったものとされている。白詩を見よう。結句の解釈が問題である。
黃金不惜買蛾眉 黄金惜しまずして蛾眉を買う
揀得如花三四枝 揀(えら)び得たり花の如し三四の枝
歌舞教成心力盡 歌舞教え成って心力尽き
一朝身去不相隨 一朝身去らば相い随わず
金にいとめをつけずに美人の家妓を買った、花のように美しい三四人の妓女を選び抜いたのだ。ところが張僕射は妓女たちに歌舞を教え終わると力つきて死んでしまった、一朝この世を去ってしまえばもう妓女たちと一緒にはおれない。
白居易の絶句の大意は、金を惜しまずに美しい妓女三四人を我が物とし、精力を使い果たして歌舞を教えたのに、一旦死んでしまえばせっかく手塩にかけて育てあげた妓女たちと一緒におれない、という意である。白詩の「不相随」の例を見ておこう
「代書詩一百韻寄微之」0608には、「紫陌(しはく)鐘鼓を伝え、紅(こう)塵(じん)路岐を塞(ふさ)ぐ。幾時か曾て暫らくも別れし、何処(いずく)にか相い隨わざる」とある。これは、わかいころ、花の都で元稹といつも一緒にいたし、どこにでも一緒に行ったの意である。「履道居三首」其三2906に「世事は平分衆の知る所、何ぞ嘗て苦と楽と相い隨わざる」という。これは苦と楽とが、いつもあいともなっていることをいう。「北窗三友」2985に「……三友游ぶこと甚だ熟し、日として相い随わざるは無し」という。これは「琴詩酒」の三友といつだって一緒にいる、の意である。
要するに、白居易の結句は、いったん死んでしまえば、あれほど可愛がり手塩にかけて教え育てた家妓と一緒にはおれないということである。妓女たちが殉死しないと責めているわけではない。
入谷は「その死後に、残された妓女たちは貴族によって処分され、離散していったものに違いない。この詩は、かならずしも妓女の薄情さを責めているのではなく、故人の生前の努力が、死後たちまちはかなくなっていったことを嘆いているのであろう」という。
ただし、この一句は、これだけを見れば、張僕射が亡くなったら家妓が後についていかないという意味にも取れないことはない。白詩「山中問月」0980に「……松下行きて伴と為し、渓頭に坐りて期有り。千巌と万壑と、処として相い随わざる無し」という。これは、月がどこに行くにもついてきてくれるとして、月の動きに重点を置いて理解することもできる。一方が一方に随うの意を強めてとれば、『唐詩紀事』の記述が成立しうる余地がこの表現にはある。簡野や小杉の解釈も成立しないことはない。
盼盼が、白居易の詩を見て詠ったという絶句はこうである。やはり次韻している。
自守空樓斂恨眉 自ら空楼を守り恨みの眉を斂(しか)む
形同春後牡丹枝 形(み)は春の後の牡丹の枝に同じ
舍人不會人深意 舎人は会せず 人の深き意を
訝道泉臺不去隨 訝(いぶか)しみて道(い)う 泉台 去(ゆ)きて随わずと
第一句、眉をしかめ苦い顔をするのは、白居易が自分を責めるのを恨んでのことである。第二句は、かつて白居易が「風は嫋(ゆらが)す牡丹の花」と自分を形容してくれたことを受け、今は花こそ散ってかつての華やぎはなくなりましたが、同じ牡丹の枝であり、主人を思う心に変わりはございません、の意だろう。「舎人」は白居易。白居易が中書舎人となっているのでこういう。ただし、白居易が中書舎人となるのは長慶元年(八二一)であり、「燕子楼三首」を作った時よりも六年後のことだから、これだけで後の人の偽作の可能性が高い。ただし、それは『唐詩紀事』の考証の問題としてここでは追究しない。
この詩は、白居易の絶句を、尚書の後を追わずに生きていることを咎めたものと解しての作である。眄眄はこの詩を作った後、食を取らず、まもなく死んだという。朱金城は、亡くなる前に歌った七言二句「児童は識らず冲天の物、漫(みだ)りに青泥を把(と)りて雪毫を汚す」とともに、「此の両詩は当に宋人の偽作に出ずるに系(か)くべし」としている。(10) 万が一、眄眄が作ったものとすれば、白居易の真意を取り損ねたものである。
以上、白居易が眄眄に与えた「燕子楼三首」は、眄眄の殉死しないのをとがめたものではなく、三首全てが、眄眄の深い悲しみを思いやって、それになりかわって作ったものである。また、「感故張僕射諸妓」は、家妓の育成に全力を注いだ張僕射(張愔)の無念を思いやっての作であること、改めて確認できたと思う。これらの詩を以て、白居易が眄眄を脅かしたことの根拠とすることはできない。
小稿の課題は以上で果たした。白詩は白詩として読むべきであり、他の資料との線引きをきちんと行うべきであることについて、ささやかな提言をさせていただいた次第である。(11)
注
(1) 朱金城『白居易集箋校』に(上海古籍出版社、1988.12)に拠る。
(2) テキストは、顧学頡校点『白居易集』(中華書局、1979.10)に拠る。
(3) 明治書院、1933.8。
(4) 『唐詩及唐詩人』、書物展望社、一九三九･九。『唐詩および唐詩人 中唐･晩唐篇』、創拓社、1990.8。
(5) 「中国文化論叢」2、1993.4。
(6) 三重大学人文学部文化学科研究紀要「人文論叢」11、1994.3。
(7) 「中国詩文論叢」22、2003.12。
(8) 台湾、地球出版社、唐詩新賞11、1992.1。
(9) 「続国訳漢文大成」、1928.8初印。日本図書センター、覆刻版、1978.7。
(10) 『白居易集箋校』第2冊928頁。
(11) アメリカの白居易研究者HOWARD S.LEVY 著の『TRANSLATIONS FROM PO CHU-I'S COLLECTED WORKS Ⅰ』(PARAGON BOOK REPRINT CORP. NEW YORK 1971)も、『唐詩紀事』をそのまま信じた解釈をしている。其三に関する解釈のみを参考までに挙げておく。
In the third poem of the series,PO showed that his sympathies were not with forlorn etertainer but rather with her deceased master,for he criticized the woman for not having comitted suicide when her master died:
This spring a guest
came from Loyang town,
having gong to
the Master's mound.
I understand that
the aspens at the grave
are already pillar-like.
Why hasn't the beauty
herself to ahes ground? (129p)